お待たせ(?)しました。

先週はちょっと家庭内でゴタゴタしていたのと、週末にはHKT48研究生公演の初日が当選したので急遽福岡に行ってきたりしてまして。これについては後ほど。

では、前回に引き続き、『AKB48白熱論争』の感想の続きを。







●第二部「では、なぜ人は人を推すのか」 

前回紹介した第一部では、総選挙直後の座談会ということで、総選挙の仕組み、ひいてはAKBのシステム論について話がありました。今回紹介する第二部では、あの「指原博多移籍騒動」の直後に行われた座談会で、「恋愛禁止条例」や、それでも推しメンを応援することについての議論が飛び交っています。

・「会えるアイドル」から「寝れるアイドル」へ?

議論が長いので引用は省略しますが、指原さんの話から「実は、アイドルと付き合える可能性があるってことなんじゃいか?」という吹っかけを宇野氏が始めています。この話、現代のアイドルの話をある意味象徴していると思うんですよね。事務所に守られて「高嶺の花」でしかなかった80年代のアイドルとはまた違ってくるわけです。それこそ、「もしかしたらアイドルと付き合えるんじゃね?」と中学生が言っても、20年前なら馬鹿にされるだけだったのが、今なら「いや、指原みたいなこともあるかもしんないよ」と返せるんですから。

もちろん、指原さんの話は研究生としてデビューして間もない頃だし、その頃はまだAKBも今ほど人気はありませんでした。選抜メンバーの合コン話も、芸能人との話なわけですから、類が違います。それでも「指原みたいなことがあるんだから」と言えてしまうことは、8月にHKT1期生が5人も辞退した(ピンチケと繋がったという話)ことにも表れていますよね。

この距離感を、濱野氏は、

「西洋発祥の恋愛って、「神への愛」という宗教的な観念が、人間どうしの恋愛に横滑りしたもので、だから「階級違いの愛」とか、「不貞」とかがやたら近代小説のネタになってたわけですよね。そこには、「あえて恋愛不可能な対象に情熱を燃やす」という形があった。それを今現代社会において実現しているのは、恋愛禁止条例を課されたアイドルしかいない」

とたとえはじめ、ここから壮大なアイドル宗教論に発展していきます(笑)。「CDの箱買いはお布施」だとか(笑)。このあたりの話は読んでてもちょっとバカバカしくなってくるので割愛しますが、面白いのは面白いので、ぜひ買って読んでみてください。

●AKBは10代の女子にとって大切な恋愛も、セックスも捨てている

中森:(注・AKBと一般女子が討論する深夜番組を例に出して)ブスい女の子の一人が、AKBのメンバーに向かって「でも、あなたたち恋愛できないんでしょ?」と蔑むような表情で言い放っててね。これは凄まじいショウだと思った。あまりの残酷さにドン引きしましたよ。メンバーはみんな、完全に凍りついてたからね。それぐらい、あの年代の女の子にとって恋愛禁止は大変なことなんですよ。「あなたたちは、いちばん大事なものを捨ててるんでしょ」みたいな話ですから。
小林:それでも、峯岸みなみなんか「自分はAKBにすがりつく」と言ってるし、マリコ様だって「40までやる」と言うよね。彼女たちは、アイドルでいられるなら恋愛しなくてもいいと思っている。
中森:それはやっぱり宗教でしょう。
濱野:とはいえ一部のメンバーは、本当にAKBのメンバーでいるまま、セックスなんかしなくていいとさえ思ってるんじゃないでしょうか。握手会を見てると、メンバーもファンの側も、変な話セックスより楽しそうにしている。1日数千人ものファンから肯定的な言葉を浴びまくるわけで、もちろん体力的には辛いけれど、これは相当な快感だと思いますよ。

これ、一般の人からしたら本当に怖いと思いますよ。リア充と呼ばれるような人はもちろん、リア充への憧れで留まるような非リア充だって、10代にとって「恋愛ができない」という状況は恐ろしいことです。僕だって10代の頃の恋愛は充実してたとは言えませんが(苦笑)、「恋愛するな」と言われたら絶望を感じたでしょうね。

でもたぶん、それをやらなければ、AKB、いや「会いにいけるアイドル」という現在のアイドル業界のシステムの中では生き残ることができない。前田敦子は引っ込み思案すぎて学校では恋愛をする前にAKBに吸い込まれていったし、大島優子や篠田麻里子はAKBに入る前に青春を終えてきているので、割り切れているんでしょう。一方で、サクッと切られてしまうようなHKTの元メンバーたちもいる。

これ、総選挙で順位付けされることや、握手会で直接1対1で罵声を浴びせられることよりも、思春期の子たちにとっては過酷なことなのかもしれません。

●秋元康はマスメディアの手法をソーシャルメディア時代にも応用させた

「AKBはプロレスから総合格闘技になった」という話が出てき始めて、AKBのメディアとしてのあり方についても議論がされています。

・プロレスはプロレス雑誌の編集者やプロデューサーが物語を作っていたけれど、ソーシャルメディアの現代では、劇場公演や握手会にヲタと一緒に放り込んでおけば、ファンが勝手にネットに物語を蓄積してくれる(要約)

なんて話が出てきて、なるほどなぁ、とうなずかされました。

さらには、

・モーニング娘。の『ASAYAN』の頃までは「半分だけ楽屋を見せる」というさじ加減がよしとされていたけれど、今はすべてをさらけ出す「ダダ漏れ」でいい(要約)

とまで言っています(余談ですが、ここでモー娘。やおニャン子と同列で語るな、なんていう他のアイドルへの軽蔑感があるのはDDとしては少し不愉快・苦笑)。

ここでももいろクローバーZとの比較なんかもされているんですけれど、プロレスと総合格闘技の対比で言うと、ももクロの台頭はある種現在の格闘技業界の現状になぞっているのかもしれないと感じ始めてきました。格闘技も90年代のK-1から始まってガチンコな総合格闘技が主流になりつつありましたけど、K-1のスキャンダルでの衰退から今ではテレビでPRIDEもK-1もほとんど見なくなってしまいました。その代わりに新日本プロレスなんかがまた人気が復活しているみたいなんですよね。プロレスマニアの芸人の影響もあるのか、テレビでもプロレスラーをまたよく見るようになりましたし。

総合格闘技は、ガチで殴りすぎたり、逆に勝利を求めて消極的な戦法が取られたり、ファンが引いていくようなシーンが気づくと見えてきていました。もしかしたら、AKBはガチンコをファンもプレイヤーも求めすぎて、結果として人が引いていくということがありうる。「プロレス」に例えられるももクロが今年の紅白に出場濃厚と言われている現状は、アイドル業界の分水嶺なのかもしれません。

●AKBは資本主義を超越し、世界を救う?

またまた話は壮大になってきていて、

・結局、資本主義(=大衆に売れること)を追求することが、システムとしてそれまでの資本主義を超えることができる(要約)

なんて話を宇野氏がし始めます。濱野氏も「ヲタ側にも秋元康に金を搾取されている」という意識はあるとファン側の視点も補足し、それでもシステムとして以前よりも優れているものだという話になってきています。

僕としては、AKBはソニー・ミュージック時代には赤字だったし、劇場公演だってAKS窪田社長らの資本がなければ成り立たないだろうと思うし、メディア論だけでなくもっと現状のビジネスモデルを検討した上でこのあたりは語ってほしいところです。(上場企業ではないし、いろんな企業が複合したビジネス形態なので分析は難しいけれど)

それでも、「クオリティの高いものを作れば金は払ってくれる」なんていう幻想論よりも、AKBみたいに効率良くお金を巻き上げているシステムのほうが、結局大衆に受けている(ように見える)というのは事実かなと思います。これは世のクリエイターやエンタメ関係者は考えて欲しいところですよね。

また、

・現代の自由恋愛主義の中で、競争から漏れた「非リア男子」を救うのが、擬似恋愛の幻想を見せられるAKBなんだ

とも語られていて、これまた壮大だなと(笑)。風俗や水商売のように対価を求めるのと違って、単に握手するだけの関係の中でここまで充実感を得られるというのは確かに他にない。インドネシアや中国にも進出し始めていますが、確かにこういう「非リア」な層は経済発展が進んできている国には一定層いるだろうと思うので、彼らから金を巻き上げるような「超資本主義」が成り立てば、各国でのムーブメントも起きうるでしょうね。そのあたり、緊張関係にある中国・上海で立ち上げられるSNH48には大注目です。

●まとめ

この本を読んで、AKBって
「とてつもなく不自然な行動様式を女の子に押しつけるけど、経済システムとして最先端だし、身近さを感じさせる」
というものだというのを感じさせられました。思春期の行動科学、資本主義経済論、宗教論、メディア論などなど、語り尽くそうに語り尽くせない深い世界にもはやなっています。おそらくこの少し厚い新書でも、4人の著者たちはまだまだ語り足りないんじゃないでしょうかね。

AKBが他のアイコンと違うのは、こうやっていい大人が「ああだこうだ」と、興味ない人からしてみたらどうでもいい話を延々とできることだと思うんです。ファンとしてはゆくゆくは規模は縮んだとしても、これからもこの仕組みが続いていってほしいもんですね。